35歳求職中の日記

35歳求職中の日々の記録です。

20170308

本日の記録

7:00起床。ご飯の後9:00頃、求人に電話した。募集は終わっていたらしい。落ち込んだがある意味プレッシャーがなくなってすっきりした。明日に違う求人を見つけまた電話しないといけない。その後11:00にモニターとブルーレイプレーヤーを引き取り業者に引き取ってもらった。

12:00にまんだらけに本を売りに行く。バイト先の担当者に電話をして、明日明後日に作業に伺うことを連絡する。動作検証の段取りをしないといけない。動かす映像音響機器の接続やら段取りをしないといけないな、と考えながら、栄の本屋によってから帰る。

15:00帰宅。16:00頃にふいに睡魔に襲われて寝てしまう。こういう時は寝覚めが悪い。頭は痛くないが、動悸が激しい。18:00に食料を買いに行き、19:00頃帰宅。

20:00ごろ友人とSKYPEで話す。契約が切れて無職になるらしい。しばらくはゆっくり考えるんだとか。

21:00日記を書く。考え事をしながらも、そろそろ寝ようと思っている。

自己責任

自己責任について考える。まずこの言葉は、他人に使わせると、たいていの場合防ぎきれない攻撃になる。まだ自分で使った方がいい。確かに自傷してしまい、立ち直れなくなる場合もあるが、他人に使われることによる他傷は、もうどうしようもないほどの強大なダメージを負うことが確定されている。ゆえに他人に使われる前に、その対策をしておかなければならない(がこれが難しい)。

次に自己責任という言葉が、「正しいか正しくないか」、「当てはまるか当てはまらないか」ということは少しおいておいて、「弱者に当てはめるとさらに殺傷能力を増す」という事を考えた。「自己責任だ!」という言葉を責任も取れない弱者に投げてしまえばそれはもう、全ての活力を奪っていく呪文と化す。責任をとれる強者であればそうはならない、当たり前である。問題は、大抵弱者に向けて投げられるのが「自己責任」という言葉である。「弱者」であることが悪いことになっている。「強くありたい」とは誰もが思っていることだろうし「強くなる」ことは正しいんだろうが、「弱者」という状態もしくは「強くなる」過程で躓いてしまうこともある。

岸政彦の「断片的なものの社会学」のあとがきに「私たちは、不幸であることも許されない」というようなことが書かれていた。この「不幸」には他の言葉も代入できてしまう。鬱、休息、、少数、・・・弱者

これは、日本人全体、あるいは社会そのものの「自己責任」なのだろうか。

もうよくわからなくなってきた。寝る。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学