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35歳求職中の日記

35歳求職中の日々の記録です。

会社を辞めた時のこと

眠れないので、記録用に書く。

この記事を見た時、前の会社を辞めた時のことを思い出した。最終的な職業はAV機器の設置業者の施工エンジニア。業務内容は、施工管理・現場管理・システム設計・機器設定・調整・修理対応・メンテナンス・図面製作・タッチパネル/シーケンス制御プログラム製作。

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私は2016年に会社を退職した。退職直前ごろの事をあまり思い出せない。思い出したくないのかもしれない。部長や支社長、社長とも面談したがその時の話の内容ももう覚えていない。それほどまでに毎日意識が朦朧としていたような記憶はある。

中野駅から徒歩15分くらいのところに住んでいた。2013年に転勤してきた。その当初仕事は確かにキツかったが、東京は魅力的な都市で中野は住みやすい街だった。新宿も近い。東京の映画館は0時過ぎでもレイトショーを上映しており、大都会で働いている事に酔っていたんだと思う。仕事は工事系のエンジニア。現場へ赴くタイプの職業。繁忙期は忙しく、1ヶ月連続で休みなし、6時起床で24時帰り、というような生活であったが、人間関係は悪くなかった。当時から”緩い生き方”は魅力的に思っていたが、自分とは無関係だし、そうなる必要もないと思っていた。

おかしくなり始めたのは2015年の春からだったと思う。通常は2、3月が繁忙期で、それをやり過ごせば、振り休も取れるしリフレッシュして次は夏の繁忙期を迎える予定だった。しかしその年は新たに顧客を増やしたために、5月、6月と現場が続く事になった。企業としては当然だと思う。しかしもともと繁忙期を乗り切るには人数が少ない会社であったため、社員一人一人の負担は大きくなり、誰もリフレッシュなんてできない状態になりつつあった。結局9月の夏工事まで繁忙期が続いたようだった。

10月はそれほど忙しくはなかったが、ある客でメンテナンス関係のクレームが起こり、予定したほどは休めなかった。なによりクレームは精神的にしんどい。もちろん上司や営業担当も一緒に取り組んでくれたので救われていたが。

11月下旬、この時期に珍しく工事現場を受け持つ事になった。サブコン下の仕事で、現場は建築下で茨城の現場だった。建築系の現場はスケジュールが日々変更になり、そのあたりの管理が難しい。この物件はキツかった。タッチパネル式の制御プログラム製作が重かった。8:00の朝礼に向かう。現場が終わるのは17:30。そこから三鷹の事務所まで戻って片付けをし、別件の机仕事や事務処理などをしながら宿泊先へ行くという繰り返しだった。なによりこの現場は本設置や調整は建物が仕上がってこないと行えないので、年末まで待たなければいけなかった。その間タッチパネルの方を進めなければならなかったが、別件のクレームもありもはや気力がなかった。どうしてこんなに能力がないんだろう。なんとか動くようになるまで製作できたが、バグも残り年始早々に修正と、引き渡ししなければならなかった。この時上司に、この物件を以って退職希望を打ち明けた。

「とりあえず年末年始は休んでくれ。そしてゆっくり考えてくれ」との事だった。私はそれに従った。

年末年始はタッチパネルの事でいっぱいだった。精神的に休めなかった。その物件はなんとか引き渡しまで運べた。そして2月からの最大の繁忙期が始まった。退職の意思は一旦封印した。今度こそ4月からまともな時間(といってもこの会社は20:00までは見込み残業式なのだが)に帰宅できる生活になると思ったからだ。しかし3月は3週間くらい5:00起床-24時退社という状態が続いた。暗くなって、現場の越中島から銀座付近を車で通るとき、街の賑やかさと、歩いている人達の幸せそうな表情はもう眩しすぎた。

どうしてだろう。生きていくために働いているのに、働いていて死にそうになっている。

乗り切ったあとに4月に待ち受けていたのは、自分の中で最悪な物件だった。工事担当ではなかったが、前の件で辛かったタッチパネルのプログラムを受け持つ事になってしまった。サブコンとのやりとりがもうしんどかった。画面デザインから何から何までダメで自己嫌悪に陥った。仕事の成り立ちにも文句をつけるようになってしまった。他人が「できる」と引き受けたことを丸投げされた格好になったと感じた。誰も信用できなくなった。みんなが夜中や休日仕事をしないと成り立たない「会社」が憎くなってきた。こんな状態が「仕事があるだけマシ」なんだろうか?ビジネス社会そのものが殺しにきている敵に思えた。大手町近くの現場で働いていてもちっとも面白くなかった。

”緩い生き方”を紹介する本やブログに逃げるようになってきた。この物件は5月以降からが本番らしく、GWもほとんどプログラムばっかり考えて気が休まらなかった。他にも中小規模の物件がちらほらあった。相変わらず「明日の朝までに図面を描け」「月曜の朝一で」「映像が出ない。音が悪い。すぐ来てくれ」「土日に作業になった」というセリフが聞こえてくる。もう聞き飽きた。

「この働き方はない」

私はそう思って改めて退職を申し出た。支社長や社長と何度か話をしたが、内容は覚えていない。おそらく伝えようとしたことも伝えられなかったと思う。「どうしたら良くなるか」なんて考える余裕もなかった。職を失う不安よりも、今の胸の動悸や、眉毛の上あたりの偏頭痛が大きかった。

上記のタッチパネルの作業で退職まで有給はもらえなかった。そう、自分は突然消えちゃわずに退職した。代償として、正社員的な働き方をする自信はもう失くなった。上記のブログの話の中で穂村弘のエッセイが紹介されていた。

彼女の心のコップの水を溢れさせた最後の一滴は、ゴミの貼り紙だった。

と記事の著者は語っている。この部分で自分の場合は何がきっかけだったのかをふと思い出す。2016年の1月。土曜日に名古屋の本社で全社員参加の会議があった。夕方に新幹線で東京に戻ったとき、新宿で映画を見た。ガルパンの劇場版だった。

繁忙期の3月。当時の営業の一人にその見に行った事を話したら

「意外と余裕あるのかと思った」

と言われた。ショックを受けたわけではないが

「ああ、そうか。そう受け取られるのか。」と思った。脱力感があった。

 

 

 

そんなことを最近思い出した。それは名古屋に戻ってきて、最近バイトでこの会社の仕事をしているからだ。相変わらずこの時期は忙しいらしい。いろんな人から復帰を誘われた。半分は冗談交じりだが。でも私はいまでも当時のことを恐ろしく思っているのでそのつもりは毛頭ない。

忘れるなら忘れたい。「朦朧としていてよく覚えていない状態」の時のことを忘れられない。

私の未来はまだ不安だらけである。友人も少ない。家族(親、兄弟)とは疎遠になりつつある。親の老後も自分の直近も不安だ。

ももうあんな働き方はもうごめんだ。社会的にそれが甘えだとしてももう私は日本のビジネスモデルがもう怖くなってしまった。あの時に私の心のコップは確かに溢れた。しかし溢れたからといって、空になったわけではない。またすぐに溜まるようになる。ブラックな働き方から一旦距離をおいても自分はそう簡単に強くなれなかった。

 

この先何年かかけて、自分と向き合って生きたい。